私の剣岳紀行

憧れの岩稜、剣へ。ここ数年、山へ行くなら剣と決めていた。
なかなか踏ん切りがつかないでいたが、一念発起今年こそはと準備をしていた。

今回の予定は私の夏休み中に剣岳に登ること。
初日は扇沢を始発のトロリーバスに乗り剣山荘まで行くこと。
2日目は剣を往復して剣御前小屋まで歩くこと。
3日目は立山を回って室堂まで歩き午前中に下りのトロリーバスに乗ること。
以上の大まかな予定を立て、雨が止みしだい決行と決めた。

私達夫婦は7月28日夜9:30、雨の中を出発した。雨の場合はどうするかという予定はない。
途中本屋へ寄り、旅の情報誌を見て、明日の昼食は伊那市でローメンを食べることにした。

30日の昼に駒ヶ根のソースカツ丼を食べて、車で走っていると「明日の降水確率0%」という天気予報が流れた。
私達は「明日は登れる」と勇んで大町へ方向転換した。
高速道路を北へ向かって走っていると、急に天気が回復し青空が見えてきた。
「山は天気が良いぞ」と期待に胸を膨らませた。

大町温泉で風呂に入ってからコンビニで若干の食料を買い込んだ。駅前で蕎麦を食べ扇沢へ行った。。
駐車場にはすでに多くの車が止まっていた。ザックに必要な物を詰め、朝起きたらすぐに出かけられるように準備して寝た。

翌31日朝はバスのエンジン音で目が覚めた。
なるべく日中に日陰になるような場所に車を移動し、アルペンルートの切符を買いに並んだ。
始発は7:30発。途中待ち時間があり、室堂着9:30、トイレに寄り山を眺めてから靴の紐を締めた。
剣はガスに隠れて見えなかったが、これから登る雷鳥沢のルートははっきり見えた。

30分ほど歩いてから朝食にしようと決めて10:00に歩き始めた。
本当に久しぶりの山歩きだ。
「3日間膝が耐えられるか」という不安より「剣岳がどんな顔で迎えてくれるか」の期待の方が大きかった。

整備された道の途中にあったログの椅子とテーブルを見つけて朝食。おにぎりと昨日の昼食の残り物のカツを食べた。
  
     駒ヶ根のガロという店、ソースカツ丼が「丼の蓋を持ち上げる程のボリューム」が売り。
     丼一杯のご飯にキャベツをたっぷり載せて周りに4枚のヒレカツを立てたもの。そのカツは甘めのソースで少し煮てあった。
     昼食時には行列が出来ていたがそのほとんどの人がソースカツ丼を注文し、
     ほとんどの人が折りを貰って食べ切れないカツを持ち帰っていた。
     我々もご多分に漏れず、折りを貰って持ち帰った。今朝の食事はその持ち帰り品。


みくりが池を過ぎると雷鳥平まで下り。別山乗越までのジグザグの登りルートが見えているだけに下りたくない。
しかし、実際に登ってみると斜度はそれほどきつくはなかった。
立ち止まって後を振り返ると、這い松の緑、残雪の白と青い空のコントラストが鮮やかだった。
汗をかいた身体に、雪渓の上を渡って来た風が実に心地よかった。
妻は「ワー」「すごい」「きれい」という単語を連発した。
今回の山行で一番高低差のある登りは、風と景色の後押しで楽しく登ることが出来た。

別山乗越にある剣御前小屋に着くとアルバイトと思われる小屋の従業員が雪で冷やした生ビールを売っていた。
元気の良いユーモアのある口上に、まだ剣山荘まで歩くことを忘れ、ついつい生ビールを買ってしまった。
その生ビールの旨かったこと、筆舌に尽くしがたい。
昼食におにぎりを食べコーヒーを沸かして飲んだ。

ここから剣山荘まではなだらかな下り、雪渓を歩きお花畑の中の道を歩いた。
途中、剣岳が霧を押しのけて顔を出した。明日も良い天気でいてくれよ。

剣山荘には風呂があった。山の上で風呂に入れるとは思っていなかっただけに嬉しかった。
熱めの湯が汗をかいた後の身体に気持ち良かった。
部屋は10人部屋に5組の熟年夫婦、17:00から夕食をとり床に入った。同室の人達としばらく話をして眠りに就いた。

朝3時頃、他の人の起き出す音で目が覚めた。我々も身仕度をして足元が見えるようになるのを待って出発した。
一服剣に着くとすでにご来光を撮ろうとカメラを構えている人が何人かいた。
我々は先を急いだが、一服剣を下り始めるとすぐ東の空がピンクに染まってきた。
空の色が少しずつ変わり、五竜のてっぺんから太陽が顔を出し始めた。
急いでカメラを取り出し何枚かの写真を撮った。

前剣への登りは浮石が多く、気を付けて歩くのだが時々石を落としそうになった。
ガイドブックにはカニの縦バイ、横バイのことは出ていたが、この前剣の登りの件は書いてなかった。
カニの縦バイ、横バイの方がもっと怖いのか、一緒に来た妻のことがちょっと気になった。
下る時に聞いた話だが、この登りで震えてしまって引き返した人もいたそうだ。

前剣に着くと休憩、小屋で作ってもらった弁当を半分食べた。
朝の足でのペースはそんなに遅くないはずなのにコースタイムよりだいぶ時間がかかっていた。
今日は剣を往復出来れば良い、そう自分に言い聞かせ、また歩きはじめた。

大きな岩が目の前にたちはだかり、そこに一本の鎖が付いている。ここがカニの縦バイか。
大きな岩の下は雪渓がはるか下まで続いていて、見ていると谷底に吸い込まれそうな気がしてくる。
前剣の登りで「鎖は使わないほうが登り易い」と言っていた妻も縦バイでは鎖を使わなければ前へ進めなかった。
初めは肘を曲げて鎖にしがみついて、ぎこちない登り方をしていたが、慣れるにしたがって次第に腕が伸びた。
鎖を登りきると傾斜はなだらかになった。もうすぐ頂上だと思うと自然にペースが上がった。
シーズン中は渋滞すると聞いていたが、今日は登山者がそれ程多くなくマイペースで登ることが出来た。

7:00、長年の念願だった剣岳頂上着。360度のパノラマを楽しむ。

40代半ばに私は急に膝に力が入らなくなった。正面を向いて階段が降りられない、ちょっと無理をするとすぐに膝が腫れる
という症状があった。
何とかしなければと自転車通勤を始めたのだが、続けてきて良かったとつくづく思う。
「まだ山歩きが出来た」ことが何より嬉しかった。今日の天気のように晴れ晴れとした気持ちだった。

携帯食を取りながらしばらく休憩し、記念写真を撮って下山開始。
カニの横バイを下りきった辺り、流れてきた少しのガスで、束の間のブロッケンが見られた。
少しずつ離れる剣を時々振り返りながら下った。

10:40剣山荘帰着。一休みして荷物を整理して、Tさんご夫妻と一緒に少し早い昼食を取った。
メニューは飯田の天神坂で頂いた松茸を入れたカップ麺。松茸の歯ごたえは良かったが香りはほとんどなし。
こんな贅沢なカップ麺は二度と食べられないだろう。

    29日夜、私達は飯田市にいた。ガイドブックで「女将の創作田舎料理の店」というキャッチコピーを見つけ「天神坂」に行った。
    丁度TVの取材と撮影が終わったばかりという事で店はごたごたしていたが、
    私の車のナンバープレートを見て「せっかく遠くから来てくれたのだから」と中に入れてくれた。
    食材は見慣れたものが多かったが創作料理と言うだけあって色々と工夫されていた。
    コスモスやかぼちゃの花のてんぷら、さくら肉のカルパッチョ風、
    酢飯に季節の花の花びらを散らした花ちらし等は初めて食べる物だった。
    特に、初物の松茸を縦に裂いたものを炭火焼にしてどっさり出してくれて、
    勘定の時に「松茸はサービスしときました」と言ってくれたのには感激した。松茸のお土産を持たしてもらい、また感激。
    秋には30種類のきのこを入れたきのこ汁を食べに来ることを約束して店を出た。

2時間以上休憩した後、お花畑が一番きれいというコースを剣御前小屋へ向けて出発した。
花の写真を撮りながら歩くTさんに、色々な花の名前を教えていただいた。
しかし、少し歩くともう忘れてしまっている自分に年を感じた。いつまで覚えていられるか、いくつ覚えられるか心もとない。
お花畑を過ぎるとハイマツ、ナナカマドの間を通り雪渓に出た。雷鳥の歓迎を受けて剣御前小屋着14:00。
小屋の前でTさんご夫妻とビールで乾杯した。

小屋は定員18人の部屋へ12人、向かい側の布団は新潟から来たという父娘の二人連れ。
私の娘は多分、私と2人では山登りにも旅行にも一緒に行ってくれないだろうと思うと
ちょっとうらやましい気がした。

2日の朝起きると窓の外は霧。出発を少し遅らせ、明るくなるのを待った。
布団に入り横になっているとTさんが呼びに来てくれた。
靴を履き外に出ると霧は少しずつ晴れてきていた。
雲が多くご来光は見られなかった。が、東の方角にある後立山連邦方面の雲の合間から光が降り注いだ。
光のシャワーという感じでとても神秘的な光景だった。

別山の山頂に立つと背後に剣が聳えていた。あの頂まで行って来たんだと長い時間剣を眺めていた。
富士の折立へ向かって歩き出してからも、次第に遠ざかる剣を何度も何度も振り返った。
この真砂岳や雄山の方が標高が高いのに、剣の方が”あこがれの岩稜”として人気がある理由が
今回の山行で分かった気がした。

雄山で休憩し一の越へ下りた。今まで歩いて来たルートと異なり、学生の団体やツアー客で登山道は渋滞していた。
道が何本も付いているので登り用と下り用に分ければもっとスムーズに歩けるのにと思う。
私達はすいている道を選びながら下った。一の越でトイレ休憩の後、ひたすら室堂を目指した。

11:00室堂に着くと今歩いて来た立山を見上げた。あの稜線を歩いて来たんだと改めて思う。
立山の後方には剣が見えた。登って来た満足感、達成感を味わった。
天気に恵まれ、良い出会いがあり本当に楽しい山行が出来た。
夢のような3日間が終わってしまう一抹の寂しさをも感じた。
もう少し歩いていたい、もう少し山を眺めていたい、そんな気持ちを残してトロリーバスへ乗り込んだ。

白馬のペンション林檎の樹で1泊、8月3日に家に帰って現実に戻る。2003年の夏休みが終わった。